トップ > コラム > コラム#5 美しい理論 - 熱・水分複合移動モデル “P-model”

コラム#5 美しい理論 - 熱・水分複合移動モデル “P-model”

  • 公開日:

熱・水分複合移動シミュレーションでは,熱移動と水分移動をどのような理論で表現するかによって,計算精度や適用範囲が大きく変わります。特に水分移動については,長年にわたり「水蒸気圧」,「相対湿度」,「含水率」などが駆動力として用いられてきました。しかし,それらは本当に物理の本質を表しているのでしょうか。

私は研究を続ける中で,「熱力学が示す本質的な状態量を使って熱・水分移動を記述したい」と考えるようになりました。その結果として構築したのが,本稿で紹介するP-modelです。P-modelのPはPotential(ポテンシャルエネルギー)を意味し,水分移動を水分ポテンシャルというエネルギー状態量によって統一的に表現することから名付けました。

P-modelは,水分移動の駆動力を「水分ポテンシャル」で統一的に記述する熱・水分複合移動モデルです。建築躯体や空間の気相・液相水分移動,温度勾配と濃度勾配による移動,吸脱着,気相・液相変化,重力や風圧等の外力および内部エネルギーの影響など,建築環境分野で扱う主要な熱・水分移動現象を熱力学エネルギーの観点から説明することを目指しています。

なぜ新しい理論が必要だったのか

従来の水分移動理論では,水蒸気圧勾配による蒸気拡散,含水率勾配による液水移動,温度勾配による水分拡散を別々に扱うことが一般的です。しかし,実際の建築躯体内部では,気相水分,液相水分,毛管吸着水が同時に存在し,互いに影響しながら移動しています。

例えば,躯体内部では,濃度勾配と温度勾配(正確には温度変化による内部エネルギーの差,空気の膨張収縮による圧力差,湿り空気の飽和度の差),および風圧等の外力によって湿気が移動し,同時に躯体内部では吸脱着が起きています。このような現象を一つの統一理論で説明することは容易ではありません。

そこで,私は「熱はなぜ移動するのか」,「水分はなぜ移動するのか」という原点から考え直しました。

熱は温度,水蒸気は何で動くのか

熱流の駆動力は温度勾配です。高温部から低温部へ熱が流れるのは誰でも理解できます。では,湿流の駆動力は何でしょうか。一般には水蒸気圧差と説明されます。しかし,温度の異なる二つの空間を湿気平衡させる実験を行うと,水蒸気圧も絶対湿度も一致しません。それにもかかわらず,水蒸気移動は停止します。つまり,「水蒸気圧が等しいから平衡する」では説明できません。

そこで着目したのが熱力学の化学ポテンシャルです。熱力学では,温度,圧力,化学ポテンシャルが全系で等しいとき平衡状態になります。この化学ポテンシャルを水分に適用したものが水分ポテンシャルです。さらにオンサーガーの相反定理により,水分ポテンシャルは非平衡系においても水分移動の駆動力となることが示されます。

水分ポテンシャルという考え方

水分ポテンシャルは,「水蒸気1kgが持つ熱力学エネルギー」と考えることができます。水分はエネルギーの高い側から低い側へ移動します。ちょうど熱が高温から低温へ流れるのと同じです。そして興味深いのは,温度が異なっても,水分平衡状態では水分ポテンシャルが同じ値になるという点です。

実際に二室模型による透湿実験では,温度は異なる,絶対湿度も異なる,相対湿度も異なる,にもかかわらず,水分ポテンシャルは一致することが確認されました。私はこの結果を見たとき,「これが湿気移動の本当の駆動力だ」と確信しました。

P-modelの特徴

P-modelでは,気相水分移動は水分ポテンシャル勾配,液相水分移動は不飽和水分ポテンシャル勾配,熱流は温度勾配によって表現します。一般的に,工学モデルでは熱と水分の移動は連成現象である(相互に影響し合う)と言われますが,非平衡熱力学の観点からは,熱流と水分流はそれぞれ独立した駆動力によって記述できます。

さらに,P-modelは外部応力(重力や空気圧)や温度差によって生じる空気の膨張・収縮に伴う圧力差もポテンシャルとして考慮できます。つまり,P-modelは建築躯体や空間で起きる吸放湿や結露など,建築環境分野で扱う主要な水分移動現象(温度勾配と濃度勾配による気相水分の伝達,気相・液相水分の伝導,毛管水の吸脱着と移動)を統一的に記述可能な物理モデルと言えます。

なぜ美しいのか

私は良い理論には二つの条件があると思っています。一つは現象を正しく説明できること。もう一つは,少ない原理で多くの現象を説明できることです。P-modelでは,「水分はポテンシャル差によって移動する」という単純な原理から,躯体内部と空間の水蒸気拡散,吸放湿,毛管水移動,非等温場の水分移動まで説明できます。非平衡熱力学理論を基礎にした非常に統一性の高いモデルです。もちろん,理論の導出は簡単ではありません。化学ポテンシャル,ギブス自由エネルギー,オンサーガーの相反定理など,多くの熱力学を理解する必要があります。

それでも私は,この理論を構築したときに「ようやく湿気移動を美しく説明できた」と感じました。

例えば,スポンジを二つ用意し,一方を少し湿らせたとします。普通は,湿気は水分量の多い側から水分量の少ない側へ移動すると考えます。しかし,実際には温度も影響しますので,冷たいスポンジと暖かいスポンジでは,水分量の多い方がスポンジ内部の湿り空気の持つエネルギーが低くなる場合があり,想像と異なる湿気移動を生じることがあります。P-modelでは,「水がどれだけあるか」ではなく,「水がどれだけ移動したがっているか」を表す量として水分ポテンシャルを使います。そして湿気は,水分ポテンシャルの高い場所から低い場所へ移動します。

これは電気が電位差で流れ,熱が温度差で流れるのと同じ発想です。つまりP-modelとは,建築材料中の水分を『量』ではなく『エネルギー』で考える理論です。

この「水分をエネルギーとして捉える発想」こそが,熱・水分複合移動現象の本質であり,P-modelの美しさだと思っています。